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2009年9月13日 (日)

【演劇レビュー】ハッピーエンドクラッシャー ゴジゲン第7回公演 作・演出:松居大悟

ゴジゲン第7回公演、ハッピーエンドクラッシャー観てきました○。舞台は九州の或る一軒家の庭先。夏休み。数人の若者たちが漫才の練習をしている。浪人生らしい。東京から昔の仲間が帰省してきて合流する。仲間の一人であった阿部はいない。何があったのか。彼らはそれを常に意識しているが、それを口にすることはない・・・。

場所は新宿のシアターブラッツ。私は初めて行きました。間口が狭く奥行きのある舞台。階段状の椅子、収容100人ちょっとってトコかな。きれいだし十分に小さい、いいハコです。桟敷じゃないのは有り難い。もうこのトシになるとコシがね・・・。

演劇を観るのは何年ぶりかな。10年?いやもっとか。熱心に観てたころからは20年くらい経ってますが、あ、そーいえばおととし、劇団新感線の犬顔家の一族観たっけ。そういう意味では3年ぶりなのか。そのちょっと前には歌舞伎も観たな。でもあれは演劇とは言わんか。

で、感想は、というと。今の演劇ってああなの?こ、これはワシの知っているモノとは違う!ってのが最初の感想。で、いったい何が違うんだろう?とずーっと考えてました。ワタシの知ってる芝居は、舞台が観客席に正対してたんだよな。夢の遊眠社の長台詞にしろ、第三舞台の詠唱にしろ、な。それがねえ、今日観た舞台は観客席に正対しないんですよ?細かい違いは幾らでも指摘できますけど、もっとも根本的な違いはソコであると思います。注意して観ていましたが、舞台から観客席に向かって言葉が発せられることはついに一度もなかった。視線が向けられることも。

思うんだが、ワタシの知ってる演劇ってーものは、観客席に向かって語ることで、観客席を含んだ劇場という空間に、ひとつの独立した世界・宇宙を生む、ということを目指してやっていたと思うんですよ。観客は確かに世界が立ち上がるその場に居合わせている加担している、という感覚があった。解かれる謎は世界そのものの謎、吐かれる台詞は世界そのものに対する台詞。観ている間に感じていた一種の全能感、幸福感はそういうことだったのだと今にして思います。

わかりづらいですかね?あの時代に遊眠社やら第三舞台やら北村想やらを観た人だったら、言わんとする感覚は、わかって貰えると思うんだけどなぁ。んなことないかな。

では、観客に向かって正対しない、今日の舞台が目指したものは何なのか?舞台の上に、リアルな世界の断片を再現すること、かな?全世界を扱うのか、世界の断片を扱うのか、の違い。そのように思います。そこにはリアルなものがあり、共感を呼ぶものがあり、泣けるものがあり、笑えるものがあり、感動出来るものがある。プロットがストーリーを進め、ドラマはカタルシスを迎える。

そういうニーズはあるんだろうなあ、ってのが個人的な感想。はっきりしているのは、オレにはない、ってことだ。そういうニーズは、ない。ないぞ。オレが欲しいのは全世界。断片はいらん。ってことで、普通の、そういうニーズを持っている人には、良く出来た、面白い芝居だと思います。オタクでアスペルガってるワタシの境界線を再認識させてくれてありがとう。これは皮肉ではなくそう思います。

この、テーマの差は、時代というヤツなんでしょうか。世界を統一的に記述する方法を探すのと、日常生活の中にありながら埋もれている真理を取り出す方法を探すのと。ベクトルの向きが正反対。どーしても、大風呂敷、広げなくてどうする?って思っちゃう。いつからそうなった?オレらの世代からすると、それは一種の退行に見えるけどなあ。どーよ?

役者では平岩美希恵さんという女優がピカ一でしたなあ。うん。これだけは、観る価値あるかも。

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