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2009年9月30日 (水)

【書評】ソングライン 著者:ブルース・チャトウィン

ソングライン読了◎。オーストラリアの原住民アボリジニは様々な部族からなり、定住せず、オーストラリア大陸全土を放浪して生活してきた。それぞれの部族は一族の歴史、即ち、旅の記録=歩いた土地の記録を、歌という形で連綿と伝承し記憶している。広大なオーストラリア大陸は、この目に見えない道、ソングラインが無数に張り巡らされた巨大な迷路なのだ・・・。

それゆえに、歌は一族の儀式の要である。更に一種の通行許可証である。その土地の歌を知っていることが先祖とその土地との繋がりを保証する。そして一種の財産でもある。近隣部族と歌を交換し、貸し借りをすることも出来るのだ。

この本で初めてソングラインというものの存在を知りました。いや面白い面白い。土地の所有、っていう概念が根本的に変わってしまうような、斬新な切り口ですよねえ。定住者でなく放浪者の土地観というか。この、自分の常識がぐらっと揺れる感じは、なんだかわくわくする感じは、上質のSFを読んだときの感じと近いな。事実は小説より奇なり。わお。

著者のチャトウィンは、サザビーズの美術鑑定家として将来を嘱望されながら、心因性の目の病から会社を辞め、考古学を勉強しなおし、全世界を旅して廻ったジャーナリストであり作家。旅をすることで目の病は治ったそうですから、筋金入りの放浪家なんですね。当然というべきか、放浪、遊牧民(ノマド)理論が生涯を貫くテーマ。なぜ人は放浪するのか。なぜ所有を嫌うのか。なぜ故国を捨てるのか。或いはまた、人はなぜ都市をつくり定住するのか。なぜ戦争するのか。本書はその集大成です。この本を書き上げて2年後、旅の途中、中国で風土病で亡くなっています。

オーストラリアを旅するドキュメンタリタッチの部分と、ノマド理論に関連する古今の文献の抜粋、アフリカと中東を中心とする著者の過去の旅の記録の断片、等々が入り混じり、決して読みやすい本とは言えません。でも慣れてくると、このパッチワーク状の断片を拾い集めて理解をしていくという作業がなんだか楽しくなってくるから不思議。これが定住的でないノマド的理解の実践、っていうのはただのワタシのこじつけか。

因みにこの本を薦めてくれたのは私の知人ですが、つねづね放浪癖がある、と彼のヨメさんに非難されている人物。そりゃ、アンタには、間違いなくいい本だよな、って思いました(笑)。

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2009年9月24日 (木)

【書評】書きたいことが書けるライティング術 著者:ケリー伊藤

書きたいことが書けるライティング術読了○。Plain Englishを提唱する著者による、書きたいことが書けるライティング術(まんまやん!)。副題は「日本人の書く英文は何を言いたいのかわからない。その理由をついに解明した。では、どうすればよいのか。英文を英文らしくするシンプルな原則をあなたに。」(な、長い!)

ライティングつながりで読みました。英語と日本語の文章の組み立て方の違いを指摘し、発想をそもそも変えなければならないとした上で、具体的に参考書の英文をPlain Englishで表現しなおした例を示す。また、実際の会社説明(ぴあと東京海上火災)を英文に翻訳するという具体的な事例を示してあり、単なる抽象論でなく、実践に於ける勘所ともいうべきものがわかるようになっています。

惜しむらくは、この薄さです。Plain Englishで書くべしという理念も、英文には英文の発想が必要だという指摘も正しいと思うのですが、挙げてある事例も参考になるのですが、如何せんこの量では理解は出来ても身にはつかない。やっぱりこういうのは知識ではなく体得しないと役に立たないからね。ドリル、練習問題、添削、そういうトレーニングがどうしても必要だけど、それはこの本には入ってない。その意味では概論の域を出てないんですな、この本は。いやそれはそれでいいんですけど、それならそれで、英語教育啓蒙のブックレットとして500円、或いは新書として700円で数を掃くって売り方が正解だったと思うんだが。どーよ?研究社?

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2009年9月23日 (水)

【書評】サハラ横断砂の巡礼 著者:前島幹雄

サハラ横断砂の巡礼読了◎。副題は「ラクダと歩いた四八七日」。アフリカ西岸のモーリタニアの首都ヌアクショットから紅海に面するポートスーダンまで、駱駝を連れ、徒歩で踏破したサハラ砂漠横断8000km、487日間の記録。更にこのあと著者はジェッダに渡りメッカに到達、カーバ神殿への礼拝を果たす。

仮名遣いは間違っているし(近ずく、とか、歩るく、とか)、乱丁はあるし(232~233頁)、文章は省略が多く視点が安定せず、時に何を言いたいのか意味不明になる。プロの文章ではない。最初、読みながら、これはちょっと頭のおかしいひとが書いた自費出版本なのかも、と思っておりました。だってサハラ砂漠を一人で踏破しようなんて思わないって、普通は。何のために、ってのもいまいちはっきりしないし。

しかし。にも拘らず、内容のあまりの迫力(凄まじさ、とんでもなさ)に頭をぶん殴られるようなショックを受ける。ちょちょちょっとまってよ、あんた、ふつうこれ死んでるって。マジで。いやマジで。ってのが何箇所も何箇所も。こころの中で悲鳴をあげながら読み進む感じ。しまいには読み進めるのがつらくなり何度も中断するが、最後まで読まずにいることがいけないことのように思え、数日後にまた手に取ってしまう。そういうことを何度か繰り返し、やっと最後までたどり着きました。脱帽です。

思うに、ワタシは全編に漂う、内省的な感じに共感を覚えて、それが読書を牽引してくれたような気がするんですが。どうなんでしょうか、これは、一般には受け入れられるもの?それとも、アホらし、と一蹴されるようなもの?個人的には時代の影を強く感じるんですけどね。って言っても読まなきゃわかんないか。

凄まじい体験の描写の一部を抜書きしようか、とも思ったのですが、止めておきます。ダイジェスト版でわかろうとしちゃだめですよ、この本は。苦労して読みましょう。

読後、著者の前島幹雄さんについてネットで調べました。昔、俳優座に所属していた役者さんとのこと。現在はシアターZという演劇チームに所属されているようで。1937年生まれってーと、もうかなりの御高齢ですね。私としては極めて珍しいことに、一度お会いしてみたい、と思いました。こんだけの凄まじい体験をして、尚且つ、その後の日常を生きるということはどういうものなのか。人が生きる意味は見つかったのか。今でもムスリムなのか。訊いてみたいなあ。「老人と海」の二人芝居をやられているようなので、機会があったら一度観に行くつもりです。最近演劇づいてるし。

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2009年9月22日 (火)

【書評】はて、面妖 著者:岩井三四ニ

はて、面妖読了○。戦国・織豊時代末期を舞台とする時代小説短編集。伊予国宇和郡に隣国の土佐一条氏が侵入、乱妨取りを掛けるが「地いくさの星」。美濃へ抜ける間道で信長を狙撃せよ「善住坊の迷い」。信長に伺候して絵を献上する、しかしその絵には実は「花洛尽をあの人に」。上方勢が小田原へ攻めてきた、そのとき齢八十歳の由良氏のご隠居様は「母の覚悟」。北条氏と秀吉の間の戦い、武州松山城には志願した町衆が大勢いて「松山城を守れ」。美貌の藤代御前は自害し、津軽為信に呪いを掛けたが「人を呪わば穴ひとつ」。大阪方の大将秀頼の近習、大野修理亮長冶の本懐とは「修理亮の本懐」。短編7編を収める。

ひとひねりした時代小説というジャンルがあるとすれば、この人の作品は外せないと思う。どこか身近なキャラクターの主人公が、事件に巻き込まれるタイプの話が多い。時代背景の考証はしっかりしていて、その時代特有の事件、悩み、展開、がある。それでいて、メインテーマはいつも、とても人間くさく身近な感情。そのギャップとゆーか、バランスが面白い。そして微かなユーモアとちょっとした毒、意外と醒めた視線。いいねえ。

時代小説の顔をした普通の小説はきらいだ。それ、べつに時代小説でなくってもいいじゃん、みたいな。ただ時代小説しました、ってのも好みではない。退屈してしまう。この人のはそうではない。その時代その場所に話を持ってくるのではなく、その時代その場所を調べていったらこの話に行き着いた、それを現代に投影してにやっと笑う、って感じなんですな。でも世の中的にはあまり高くは評価されていないような気がする。

ただの娯楽時代小説として、ある種のパターンものとして、消費されて消えていくのかな。ちょっともったいない。オチのつけ方を見ているとパターンのように見せてパターンを外すという、そういう意思を感じます。この人、もっと評価されていいと思うんだがなー。

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2009年9月21日 (月)

【書評】カラシニコフ銃 AK47の歴史 著者:マイケル・ホッジズ

カラシニコフ銃AK47の歴史読了○。副題は「世界で最も愛された民衆の武器」。1947年にミハイル・カラシニコフによって開発され、ソビエト連邦軍に正式採用された突撃銃AK47。その信頼度の高さと取り扱いの容易さから、派生モデルも含めると現在1億丁が世界中で出回っていると言われ、皮肉を込めて「小さな大量破壊兵器」と呼ばれる。中東を中心に活動するジャーナリストである著者が、AK47の誕生以来、この銃が紛争に与えてきた影響と、この銃のイメージの変遷を追い、第三世界を中心に、各地に現出するカラシニコフ的社会状況をレポートする。

著者はこの銃に魅せられています。この銃を通して、現代史を語ろうとしているように見えます。選ばれている時代と場所。第一章は開発者ミハイル・カラシニコフの故郷イジェフスクの現在。第二章はミハイルの伝記とAK47開発の経緯、1940年代~50年代。第三章はヴェトナム戦争、1960年代。第四章はパレスチナ、1970~80年代。第五章はスーダンの少年兵士、1980~90年代。第六章以降はほぼ現在の話で、第六章はイギリスで育ったパレスチナ人。第七章は2003年5月のブッシュ大統領の戦争終結宣言後のイラクの現状。そして第八章は、現在のアメリカ。

各章の独立性は高く、興味のある章だけを読んでも大丈夫なほど。AK47を離れても物語として読めます。文体に関して言うと、聞き書きを物語りに仕立てた第二章、第三章、第四章、第五章は読みやすい。第六章は語られる物語と取材している現在が入り混じり、第一章、第七章、第八章はルポルタージュの文体。個人的には第五章のスーダンの少年兵士の話が最も印象に残りました。

ソ連の正式採用銃から第三世界の革命の象徴へ。そしてテロリストのトップブランドへ。客観的に見て、この銃がここまで世界の小火器市場を席巻出来たのは、機能(信頼性、分解掃除の簡単さ)、生産性(生産が容易、且つ安価)、政治状況(冷戦下ソ連が中国・北朝鮮を始めとして東側各国にライセンス供与、その後コピー品の闇生産が拡散)、の3点に於いて優位性を持っていたからですが、その全てはこの銃の極力単純な構造に起因します。最もシンプルな解が最もエレガントな解だ。個人的には、その意味で単純にすごいな、と賞賛する気持ちが湧くのを止められん。

でも、コトはそう単純ではないんだよな。それはそれとして、その結果生まれている社会状況、カラシニコフ社会の現出を見ると、一種絶望的な気分になります。取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないか、という感情が湧く。

著者の言うカラシニコフ社会とは、膨大な数の銃のせいで文明社会が自らを主張することも殺人をやめさせることも出来なくなった社会。社会のすみずみまで銃が行き渡った結果、警察力が無効になり、秩序の維持が昔ながらのお互いの力の均衡によるものになってしまった社会。圧倒的な殺傷力が、個人ひとりひとりのものになってしまったとき、何が起こるのか。圧倒的な殺傷量とは、とか、理論上、どうこう、でなく、実際にそれが手に入る、ってとこがポイントなんだよな。安価に大量生産出来てしまった、それを大量に供与した、ばら撒いた、ってとこがね。もう戻れないところまで。

第五章に込められたメッセージはそういうものです。そしてそれは六章・七章を経て、第八章のアメリカに行き着く。それは第三社会だけの話じゃない。アメリカが実はカラシニコフ社会と親和性が高いと言う皮肉。現代史理解とアメリカ理解のサブテキストとして一読をお奨めします。

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2009年9月20日 (日)

【書評】思考する言語(上) 著者:スティーブン・ピンカー

思考する言語(上)読了◎。副題は「言葉の意味から人間性を考える」。原題は(たぶん)「The stuff of thought」。本書には原題が明示されていないのでネットで見当をつけた。直訳すると思考の材料。

上中下巻、全部読んでから書評を書く、ってのがこのブログでの今までのスタイルでしたが。この「思考する言語」に関しては一冊読むごとに書くことにしたいと思います。盛りだくさんで中身が濃い。メモを取っておく必要があるんで。最後まで読むのを待ってられない。

もともとは英語学習の一貫として読んだのですが、これが滅法面白い。英語について英語のネイティブが書いた本ですが、だからこそ日本人の英語学習者にとって重要な示唆に富みます。英語学習者として、目からウロコの連続。ネイティブの頭の中で英語がどのように処理されているかのヒントにもなります。そしてそれ以外に、思考について、社会について、人間について、哲学的な観点からも楽しめる。内容がぎっちり詰まっているので、決して軽くは読めないのですが、言語学者独特のギャグが随所で炸裂し、読み物としても秀逸です。わお。一読をお奨めします。

英語学習者としての余得。覚え書きでホンの一例を挙げます。

英語の動詞は、文の構造を決める。I loaded hay onto the wagon. これを内容所格構文という。I loaded the wagon with hay. これを容器所格構文という。動詞loadはどちらの構文も取る。しかし、I poured water into the glass.とは言えても、*I poured the glass with water.とは言えない。I filled the glass with water.とは言えても、*I filled water into the glass.とは言えない。この差は何によって生じるのか。動詞の意味?しかしloadもpourもfillも全てあるものをどこかへ移動させることを示し、登場する要素(移動させる主体、移動する内容、移動の到達点である容器)も同じである。なのになぜ?日本人にはなかなかピンと来ない。

ここで認知上の図と地の反転という概念を導入する。

意味的な再解釈のルール:もし動詞が「AがBをCに移動させる」という意味を持つなら、それは「AはBをCに移動させることによって、Cを変化させる」という意味にもなる。

意味と形を結びつけるルール:影響を受ける対象を直接目的語として表現する。

つまり、pourは水が上から下に注ぐ、という様子に注目する動詞で、その結果どうなったかを気にしない。fillは容器が一杯になる様子に注目する動詞で、その過程を気にしない。だから、pourは内容所格構文しかとらず、fillは容器所格構文しかとらない。

目からウロコが落ちませんか?ついでにもうひとつ。別の側面から。二重目的語与格構文。

throw him the box (彼に箱を投げる)とは言えるが、*lift him the box (彼に箱を持ち上げる)とは言えない。tell him the news (彼にニュースを話す)とは言えるが、*mutter him the news (彼にニュースをつぶやく)は奇妙に聞こえる。

何かを移動させることと何かを所有させることの間には図と地の関係がある。逆に言うと、二重目的語与格構文には、所有させること、というニュアンスがある。動詞に意味があるだけでなく、構文にも意味がある。だからある構文と相性のいい動詞、悪い動詞がある。逆に、構文の意味を使った、英語独特の(日本語に訳せない)表現がある。

Thank me no thankings, nor proud me no prouds. (ロミオとジュリエットより)

意味は、私に感謝しろその結果私は感謝を所有しない、からつまり、これは私に感謝することで、私が喜ぶとは思うな、私を誇りに思うことで私が喜ぶとは思うな、という意味。構文の持つ意味、という視点がないと、これはまず普通の日本人には理解不能じゃないですかね?これは決して古英語ではなく、今でも新聞やインターネット上に溢れている表現だそうで。

UT me no UTs. (もうこれ以上UTなんて使うな。アメリカの州の住所表記をアルファベット二文字で省略するやりかた-ユタ州をUTと書くように-は、見苦しいのでやめてくれ、という内容の記事のタイトル)

Jeff Malone me no Jeff Malones. (私にジェフ・マローンすることで私はジェフ・マローンを所有しない。NBA選手のジェフ・マローンがオールスター戦に選ばれるに値しないという趣旨のスポーツ記事のタイトル)

面白い面白い。

そしてこの本の真の面白さはここから始まるんですよ。このルールを拡張していき、人間の心にとって(脳にとって)、図として捉えられるのは何か、地として捉えられるのは何か、その根源的な要素を探していく。人間の脳の持つ認知の生得的な傾向を。それらを組み合わせる生得的な傾向を。

原題のstuff of thoughtというのは、これらを指しています。よくある、言葉が思考を形作る、という話(言語決定論といいます。実際、著者は本書を執筆中「言語と思考」についての本を書いているというと、「言語が思考をどのように形作るのか」についての本だと必ず誤解されるので、言うのをやめた、と書いています。)ではなく、これら心の傾向、が動詞を=言葉を作っている、という話。著者はこれを思考の言語と呼びます。幾つかの生得的な傾向があり(要素、つまり単語にあたる)、それはある規則に従う(ルール、つまり文法にあたる)、だからこれを一種の言語と看做して分析することが可能だ、というわけですね。

現実に起きている現象を言語は反映する。言語学者はその言語を分析することで、現実に起きている現象を説明してみせる職人だと思いますが(例えば現代英語が動詞walkを使わずにhave a walkという言い方を好むのは何故か)、この本の研究がユニークなのは、その方法論を言語自体に適用して、言語という現象を説明しようとしているからだと思います。自己言及的入れ子構造。オレこれ好きなんだよなー。わくわくしない?

それって、英語の話でしょ?と思うでしょう?英語学習の効能はわかるけど、哲学とは関係ないじゃん、と。いえいえ。思うに、日本語でも基本的な構造は同じですよ。ただ現れ方が違うだけで。日本語の場合は、助詞がその辺の機能を担っているのだと思います。「彼女がロンドンに着いた。」という文は「彼女はロンドンに着いた。」という文と比べて、ちょっとだけ違和感があるでしょ?そしてその違和感の原因を、ネイティブの日本人は言葉ではうまく説明できない。外国人の日本語学習者がよくつまづくのもココです。うちらが間違った構文を使ってしまうのと同じ。

未整理の苛立ちもある。基本的な概念は何と何なのか。いくつあるのか。ここで言う個々の解釈と、時間・空間・力・物質という概念の層との関係は?与格構文の分析で出てきた、人の助けになることと人の害になること、瞬間的なことと時間を掛けること、等の区別は、どこに位置づけられるのか(いやこれも空間のメタファーで、人間特有の癖ですな!)。まだ頭の中で整理しきれてないよー。それの応用としての基本動詞イメージ一覧表も。いっそチャート式みたいに図にまとめて!お願い!って思うんですけど、それはない。少なくとも上巻には。

上巻だからか?著者の興味がオレとは微妙に違うところにあるからか?ま、中下巻と進むにつれその全てが一覧できるようになる・・・。のか?ホントに?

ってことで、読んだら書く、なるべく早く、というルールに従い、取り敢えずアップしとく。てか、書きすぎだ。800字位が適量なのにね。これ、やってたらいつまでたっても終わらん。生煮えでとっちらかっててすみませんねえ。いつか(いつだ?)整理しますんで。
(【書評】思考する言語中巻はこちら。【書評】思考する言語下巻はこちら。)

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2009年9月16日 (水)

【書評】田村はまだか 著者:朝倉かすみ

田村はまだか読了△。札幌、ススキノのスナック「チャオ!」。小学校のクラス会から流れた40歳前後の5人が、遠方から駆けつけてくるはずの、田村を待っている。待ちながら、田村を思い、あの頃を思い、あれからあったいろんなことを思う。この5人に店のマスターである花輪を加えた6人、それぞれを主人公とする、ちょっと悲しく、ちょっとほろ苦く、ちょっと気恥ずかしい、連作短編6編を収める。

そういう世代って、あるな。そういう頃合いというか。ある。昔の友達に会いたい頃合い。昔を懐かしみたい頃合い。やたらクラス会をしたい。やたら昔話をしたい。あの頃の。

ってニーズが、あるんだな。あるんだろうなあ。40歳前後に一回。んで、次は60-65歳前後?で、その次は?80歳?

60-65歳前後のソレは、会社勤めを終えて、ふと、昔を懐かしみたくなるんですな。会社の先輩とゆーか、おじさんたち見てるとその感じはわかる。80歳前後のソレは、生き残っている面子の確認?ここまで来ると、なんつーかちょっと意味合いが違うね。では40歳前後のソレは、何なんでしょうね。なんとなく一息つくタイミングってゆーか。現役としてラストチャンス、ってゆーか。え?いや意味わからずに言ってるんですけどね。

個人的にはオレ、興味ないなあ。40歳前後のソレ(そうだ、はがきが来てたぞ)も、ふーん、って感じでやり過ごしたし。こんなオレでも定年迎えたら同窓会に行って昔を懐かしんだりするんだろうか。想像できないな。昔、か。興味ないなー。

おおっと。「田村はまだか」から大分脱線していますね。ごめんなさい。って流れからも判ると思いますが、ごめんなさい。ワタシのテイストではありません。じゃあ、何で読むんだ?ってーと、読んだからワタシのテイストでないとわかるんです。はい。読み始めたら最後まで読む。最後まで読んだら正直に感想を書く。ま、それがルールですから。ひとことで言うと、ぬるい。そのぬるさに不満を覚えるんだな。

そのぬるさに不満を覚える自分がとても好きだ。そのことを確認させてくれる読書は貴重だ。これは、書評のブログを書いていて良かったな、と思う瞬間のひとつ。はい。

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【書評】ファーブルの庭 著者:マルティン・アウアー

ファーブルの庭読了◎。「昆虫記」で有名なフランスの学者にして詩人、アンリ・ファーブルの伝記。ファーブルの友人であるL.V.ルクロの書いた伝記と、1981年にイヴ・ドウランジュが書いた伝記、それから「昆虫記」自身、この3つの本からの引用を基に、貧困と戦い、自然を愛したファーブルの一生を鮮やかに描き出す。

何度目かのファーブルの伝記だな、ワタシにとってね。それとファーブルの昆虫記。いいなあ。オレ、なんでファーブルが好きなんだろな?元祖オタクだから?元祖社会不適応だから?そうじゃないな。ひとつには、その格調の高さ、純粋さ、に惹かれるんですよ。階級社会の中で、誰におもねることもなく、研究を続ける姿勢に。昆虫の世界を通して真理に迫るそのひたむきさに。人間の本質について、社会の行く末について、見通す眼力に。それから。それを格調高く謳いあげる独特の文体。いいなあ。好きだなあ。憧れます。

ファーブル、ずーっと貧乏に苦しんだんだったよなー。あんだけのことをやり遂げ、勲章も貰い、でも、最後まで困窮と隣り合わせだった。なんだかなあ。階級社会。19世紀的貧困。でも、貧しくはなかった。晩年の30年間はフランスの片田舎セリニャンにひっこみ、家族に囲まれて、好きなだけ昆虫の研究が出来た。その意味ではとても幸せで豊かな暮らしだった。よかったね。

こんな風に晩年を過ごしたいな。オタクとしてはな。うん。そのために、やんなきゃいけないことは、たくさんあるけど、まずは、経済的な基盤をつくること、だな。

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2009年9月13日 (日)

【演劇レビュー】ハッピーエンドクラッシャー ゴジゲン第7回公演 作・演出:松居大悟

ゴジゲン第7回公演、ハッピーエンドクラッシャー観てきました○。舞台は九州の或る一軒家の庭先。夏休み。数人の若者たちが漫才の練習をしている。浪人生らしい。東京から昔の仲間が帰省してきて合流する。仲間の一人であった阿部はいない。何があったのか。彼らはそれを常に意識しているが、それを口にすることはない・・・。

場所は新宿のシアターブラッツ。私は初めて行きました。間口が狭く奥行きのある舞台。階段状の椅子、収容100人ちょっとってトコかな。きれいだし十分に小さい、いいハコです。桟敷じゃないのは有り難い。もうこのトシになるとコシがね・・・。

演劇を観るのは何年ぶりかな。10年?いやもっとか。熱心に観てたころからは20年くらい経ってますが、あ、そーいえばおととし、劇団新感線の犬顔家の一族観たっけ。そういう意味では3年ぶりなのか。そのちょっと前には歌舞伎も観たな。でもあれは演劇とは言わんか。

で、感想は、というと。今の演劇ってああなの?こ、これはワシの知っているモノとは違う!ってのが最初の感想。で、いったい何が違うんだろう?とずーっと考えてました。ワタシの知ってる芝居は、舞台が観客席に正対してたんだよな。夢の遊眠社の長台詞にしろ、第三舞台の詠唱にしろ、な。それがねえ、今日観た舞台は観客席に正対しないんですよ?細かい違いは幾らでも指摘できますけど、もっとも根本的な違いはソコであると思います。注意して観ていましたが、舞台から観客席に向かって言葉が発せられることはついに一度もなかった。視線が向けられることも。

思うんだが、ワタシの知ってる演劇ってーものは、観客席に向かって語ることで、観客席を含んだ劇場という空間に、ひとつの独立した世界・宇宙を生む、ということを目指してやっていたと思うんですよ。観客は確かに世界が立ち上がるその場に居合わせている加担している、という感覚があった。解かれる謎は世界そのものの謎、吐かれる台詞は世界そのものに対する台詞。観ている間に感じていた一種の全能感、幸福感はそういうことだったのだと今にして思います。

わかりづらいですかね?あの時代に遊眠社やら第三舞台やら北村想やらを観た人だったら、言わんとする感覚は、わかって貰えると思うんだけどなぁ。んなことないかな。

では、観客に向かって正対しない、今日の舞台が目指したものは何なのか?舞台の上に、リアルな世界の断片を再現すること、かな?全世界を扱うのか、世界の断片を扱うのか、の違い。そのように思います。そこにはリアルなものがあり、共感を呼ぶものがあり、泣けるものがあり、笑えるものがあり、感動出来るものがある。プロットがストーリーを進め、ドラマはカタルシスを迎える。

そういうニーズはあるんだろうなあ、ってのが個人的な感想。はっきりしているのは、オレにはない、ってことだ。そういうニーズは、ない。ないぞ。オレが欲しいのは全世界。断片はいらん。ってことで、普通の、そういうニーズを持っている人には、良く出来た、面白い芝居だと思います。オタクでアスペルガってるワタシの境界線を再認識させてくれてありがとう。これは皮肉ではなくそう思います。

この、テーマの差は、時代というヤツなんでしょうか。世界を統一的に記述する方法を探すのと、日常生活の中にありながら埋もれている真理を取り出す方法を探すのと。ベクトルの向きが正反対。どーしても、大風呂敷、広げなくてどうする?って思っちゃう。いつからそうなった?オレらの世代からすると、それは一種の退行に見えるけどなあ。どーよ?

役者では平岩美希恵さんという女優がピカ一でしたなあ。うん。これだけは、観る価値あるかも。

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2009年9月11日 (金)

【書評】楽園 著者:宮部みゆき

楽園読了◎。「模倣犯」の事件から9年が経過。ライターの前畑滋子はあの事件に関する本を書くことなく、編集プロダクションの仕事をしている。そこへ小学生の息子を交通事故で失った萩谷敏子という人物が訪ねてくる。息子には一種の超能力があったのではないかと思う、それを調べてくれないか、と。息子が描いた絵が最近ニュースになった事件を予知していたらしいという。両親が実の娘を殺し自宅の床下に埋めていた。15年の長きに渡り。しぶしぶ形だけの調査を引き受けた滋子は、調査を進めるうちに意外なものにぶつかる。あの「模倣犯」事件の山荘の絵が描かれていたのだ。当事者以外は知りえない情報とともに。これはいったい何を意味するのか・・・?

「模倣犯」にも出てくる人物がたくさん登場しますが、小説として見れば、必ずしも「模倣犯」の続編とゆーわけではない。でも、もしまだの人がいたら、せっかくだったら「模倣犯」を読んでから、この本を読みましょう。

この人の現代モノは久しぶりだ。ここんトコ江戸モノばっか読んでたからなー。いいねえ。達者だねえ。巧みな伏線、精緻な構成、意外な展開、それから、深い問いかけと魅力的な人物。堪能させていただきました。物語の発端となったおばさん、萩谷敏子さんがいい味出してます。てゆーか、この人物の魅力が作品中の救いになってますね。

テーマ自体はとても重いものだもの。幸せとは何か。人を犠牲にすることでしか手に入らない幸せがあるとしたら、それを求めることは許されることなのか。

タイトルが「楽園」ってトコから、もう伏線は張られているわけで、ううむ、やっぱこの人の地力は凄いなあ、と感嘆致しました。一読をお奨めします。

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2009年9月 8日 (火)

【書評】ダンシング・ヴァニティ 著者:筒井康隆

ダンシング・ヴァニティ読了◎。虚構と現実の関わりについて書き続けている著者の最新長編。主人公は美術評論家の「おれ」。夢の中で夢を見た本人が死ぬと、現実に死んでしまうという"死夢"が流行っているという。これは誰の夢なのか。同じ事件が少しづつ角度を変え、繰り返し繰り返し起こる・・・。

最新、ではないのかもしれない。出版は2008年1月。ネットで検索すると2008年8月にビアンカ・オーバースタディという本(ジュブナイル?)を出しているようなのだが、何故かアマゾンでは売ってない。でも、ま、最近の作(昔の作品の再録とかでなく)、ということで。

中学生の頃からの読者だから、正直言うと、書評なんて畏れ多いって思ってしまうんですけど。読んだら書く、ってのが目下のルールなんで(マンガは除く、いや書きたい気はするんだが、マンガだとたくさん読めてしまうので、書くのが追いつかなくなるんですよ)、取り敢えず書きます。

書かれた現実は既に現実ではない。現実は書かれた瞬間に虚構になる。ならば書かれたものとして見れば、現実と虚構を区別することは出来ない。両者は共に「言葉で出来ている」。その、言葉で出来ている世界の登場人物にとって、虚構は現実である。一方、現実世界から見ると、虚構は虚構である。では、虚構世界に置いて、この世界が虚構世界であることを知っている人物がいるとする。そのとき、この人物にとってこの世界での現実を書くことは、虚構世界で虚構を書くことなのか。それとも虚構世界で現実を書くことなのか。それとも現実世界で虚構を書くことなのか。それとも現実世界で現実を書くことなのか。

んなこた、どうでもいいじゃん?そうですね、どうでもいいっちゃどうでもいいんですけど、そう思う感じは良くわかるんですけど。でも、なんでそう思う(どうでもいいじゃん、って思う)かというと、現実は現実で虚構は虚構だから、という確信があるからですな。少なくとも今読んでいるこれは、書かれた世界であるという意味で、間違いなく虚構である、それに対して今自分がいる世界は現実であると。

でもね、小説はそもそも自分以外の視点を体験することの出来るツールですから、それはそれとして、現実が虚構で虚構が現実である世界の主人公の立場に立ってみることは可能ですね。この小説の場合主人公は一人称の「おれ」ですから、この小説を読むことが、そのまま、主人公の立場に立つことになります。読者は、書かれている虚構を読んでいる現実の存在であるという意識と、書かれている虚構の中の存在であるという意識の、両方を持ちつつこの作品を読む。

この虚構世界はどんなルールに従っているのか。主人公がこの世界は言葉で出来ていることを知っていることを前提とする、というルールです。そんなことは作品中にはひとことも出ては来ませんが。根本的なルールというのはそういうものですね。この世界のルールは、なんていちいち説明はしない。あまりに当たり前でそんなものがそこに存在することすら気がつかない。ただ一貫してこの虚構世界はルール(法則と言ったほうがわかりやすいか)に従う。

言葉は意識で作られますから、この小説は主人公の「おれ」という意識が言葉を使って世界を作っていく小説になります。意識の中では時間も空間もない。その意識に特有の癖でもって、何度でも事件が反芻され、反芻するうちに細部が変質していく。その意識の運動は、いつまで続くのか。それは・・・。

さて、なんとなくノリで書いてしまいましたが。どうでしょう。ボケてたらゴメン。

筒井さん、年取ったなあ。いやべつに衰えた、とかいう意味では全然なく、年を取った。そりゃ中学生が40代後半になるんだから、年もとるわな。これは、年を取った筒井康隆でないと、書けない小説ですから。何かに似ているとしたら、そう、私小説、という言葉が頭をよぎりました。それはそれは。それはある種日本文学史上の皮肉とでも申しましょうか。長生きはするものですねぇ。取り敢えず一読をお奨めします。

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2009年9月 6日 (日)

【書評】英語を制する「ライティング」 著者:キム・ジョンキュー

英語を制する「ライティング」読了○。副題は「知的な大人の勉強法」。著者はアメリカ留学体験を持ち、日本のベンチャー・キャピタルで海外投資を担当する韓国人。会話中心に英語を勉強することの限界を指摘し、ライティングこそが真の英語力を身に着ける王道であると述べる。

うーん。書くことの効用については、自分で勉強していく中でなんとなくだが気づいていたのよ。それを理論的に裏付けてくれるものとして、また、具体的で効 率的な「書く」練習法を求めて、この本を読んだんだが。読後、理論的な裏づけについてはそこそこ満足したが、練習法については正直ちょっと期待はずれ。

何が問題なのか、何を学ぶべきか、は充実しているが、どう学ぶか、が弱いんです。どう学ぶかの結論として、コンピュータには無理、優秀な先生につくこと、ってーのは、ま、本当のコトなんでしょうけど。それも、優秀な先生に出会うまで繰り返しトライするしかない、って、それじゃあ困るよ。読んだ甲斐ってものがないじゃないですか。

本全体の印象としても、かなり無理して水増ししている感があります。引用も多いし、文章も面白みに欠けるしね。ホントだったら△つけるトコなんですが。でも、ライティングが大事なんだよ、ってメッセージはホントのことだと思うんだよね。これは自分の体験として。本としては△だが、英語学習という観点からは○と、そういう理解でひとつお願いします。

そうそう、この本の中で一番興味深く、役に立ったのは、巻末付録:エッセイ・ライティング実践例の章です。僅か16ページですが、実際に著者が日本のビジネスマンを対象に作文の授業をした際に提出されたエッセイと、その修正の模様が書かれています。

以下、覚え書き。

この本で言うライティングとは、論理に一貫性があり、文法的に正しい、5段落から構成される完全な小論文=5パラグラフ・エッセイを書くことを指 す。各パラグラフは主題文、補充文、締めくくり文からなる。また全体構造として、第一パラグラフは主題部、第二~第四パラグラフは補充部、第五パラグラフ は締めくくり部として機能する。

英語圏の国語教育ではこの5パラグラフ・エッセイを書くことを重視する。アイデアを論理的に構成し、明瞭な言葉として表現し、その上で文法、スペリングに注意を払いつつ文章として完成させる。逆に言えば、それが出来ることがちゃんとした教育を受けた証になるのだ、と。

英語の文章を読む→読んだ文章に関して自分の立場をエッセイに纏める→エッセイを元に議論をする→エッセイを直される→復習する。直されるのは次の5つの点。

1.文法の間違いを訂正し、悪い癖を直す、2.通じにくい単語の使い方を指摘し、適切な代替案を示す、3.論理的なつながりの弱いところや矛盾を指摘し、再構成を促す、4.必要以上の修飾を削る、5.文章全体の構成を検証し、論理の流れを見直す。

でも、オレ閃いた。これ、もっと整理して洗練させる方法は、あるな。・・・ちょっと時間が掛かるかもしれないが、知り合いのカナダ人の先生と相談して、試してみたいと思う。成果があがったらこのブログでまた御報告します。

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2009年9月 3日 (木)

【書評】秘められた貌  著者:ロバート・B・パーカー

秘められた貌読了○。パラダイス署長ジェッシイ・ストーンのシリーズ第6作。パラダイスの公園で全国的な人気キャスター、ウォルトンの射殺死体が発見される。数日後、今度はウウォルトンの愛人が。彼女は妊娠していた。ジェッシイは二つの殺人事件の捜査に忙しい。そこへ、ジェッシイの前妻ジェンがストーカーにレイプされたとジェッシイに保護を求めてきた。ジェッシイはショックを受ける。手が回らないジェッシイは知り合いの女私立探偵サニーにジェンの警備を依頼する・・・。

シリーズものっていうのは、書く側からしたら楽なんだろうな。お決まりのやりとりを忘れずに入れておけば、ファンはそれだけで喜んじゃうもんね。私にとってはそれはジェッシイとモリイのやりとり(「「人のお節介はやめろ」「いやです」モリイが言った。彼女は彼に向かって微笑むとドアを開けた。「やめませんよ」彼女は言って、出ていった。)、スーツとの会話(「コンシェルジェって、正確に言うと何ですか?」「コンシェルジェとホテル客の関係は、お前と俺の関係のようなものだ、スーツ」)とかの部分だな、と再認識。

それから、マンネリを防ぐために必要なのがシリーズを通して少しずつ進展する何か。このシリーズではジェッシイとジェンの関係ですね。

で、シリーズを通してのテーマが無きゃいけない。このシリーズではそれはフェアネスだと思うんですよ。この第5作について言えば、そこんトコがいつものジェッシイに比べて弱い。いつもだとジェッシイのフェアネスぶりを描くために用意されるサブストーリーが、ジェンとの関係を描くのに使われているからですね。

確かにジェッシイが探偵役に徹するよりも、当事者として巻き込まれていた方が話が面白くなる、ってのは間違いない。今後、ちょっと方向性を変えていくのかな?ジェンの性格を知れば知るほど、無事に普通に元のサヤってーのはなさそうだし。ジェッシイの悩みは深い。うん。それはそれで面白いかも。

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2009年9月 2日 (水)

【書評】インドいき 著者:ウイリアム・サトクリフ

インドいき読了○。主人公のデイブはイギリスの大学生。ホントは旅になんて出たくない。なんでよりによってインドなんかに行かなきゃなんない?汚くて危険でごみごみしているのに?ところが、友達の彼女リズの色香に惑わされ、一緒に3ヶ月のインド旅行へ行くことに。期待にはちきれんばかりの下半身。果たして初めてのインドは・・・。

シニカル青春コメディとでも申しましょうか。一見厚い本に見えますが、軽くさくさく読めます。インドの汚さに恐れをなし、物乞いのしつこさに辟易しながら、バックパッカー御用達の宿でハッパをふかし、かと思えば、スピリチュアルかぶれの西洋人をこきおろす。んでもって、下痢でのたうち回ったり、海岸で孤独に涙したり。友達になったインド人の御曹司とつるんでナンパに燃えたり。

その昔のピッピー世代のインド礼賛(スピリチュアルな国、聖と俗の混沌、ヨガ、メディテーション、etc)を下敷きにして、インドそのものでなく、インドにかぶれる西洋人をコミカルに描いています。きっと痛いトコついてるんだろな。思わず笑ってしまうネタの数々。

んで、実をゆーと、ワタシ自身が、この年末インド行こうかな、って思ってたトコなんすわ。いやホントはインドなんて、学生のときに行っとくトコじゃないですか。47歳二児の父、一応部長、が遊びに行くトコじゃないよね。それがねえ、行けてないんですよ。でも昔から憧れがあってね。所謂、単位のとり忘れ、ってヤツですね。

この本を読んで、ワタシの中にあるインド礼賛的な部分も笑われた気がしてね。正直に言うと、確かに思い当たる節はあるんだな。痛いトコついてんだろな、じゃなくて痛いトコつかれた、なんです。ちょっと鼻白みました。うん。それでもなおかつ行くかどうか、行きたいかどうか。うーん。今年を逃したらもう、チャンスはないような気がするなー(年末9連休)。まさか定年後に自分探しの旅に出るってわけにも行かないしねぇ。・・・いや、それはそれで斬新な企画かも?いやしかし。

もうちっと考えたいと思います。

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